「消えちゃいたかった」斎藤工が今明かす、バックパッカーとモデルに明け暮れた“もがきの時代”と表現者の原点
斎藤 工 若い 頃の彼を知る者は、今のマルチな活躍を想像できただろうか。俳優としてのみならず、映画監督、移動映画館の主宰者、そして写真家として、日本のエンタメ界で唯一無二のポジションを築いた斎藤工。しかし、その輝かしいキャリアの裏には、狂気的なまでの旅への執着と、何者でもなかった若き日の焦燥感が隠されている。
10代後半から20代にかけて、彼はバックパック一つで世界を放浪し、パリコレのオーディションに単身で乗り込むなど、無謀とも言える挑戦を繰り返していた。私たちがスクリーンで目にする色気漂う姿は、この斎藤 工 若い 頃の泥臭い経験と、異国で味わった圧倒的な孤独によって形作られたものに他ならない。
パリコレ挑戦とバックパッカー:路地裏で磨かれた「野良」の感性
高校時代からモデル活動を始めた彼は、単に華やかなランウェイを目指していたわけではない。手に入れた資金を握りしめ、アジアやヨーロッパを旅した。バックパッカーとしての過酷な日々が、彼の骨格を作った。「宿がない夜は駅で寝た」というエピソードは、今の洗練された彼からは想像しにくいかもしれない。だが、その時の飢えと好奇心こそが、彼の表現の根底にある。
旅先で出会った人々の体温や、異国の乾いた風。それらが彼のカメラの被写体選びや、映画の絵作りに色濃く反映されている。予定調和を嫌う彼のクリエイティビティは、この放浪期に決定づけられたのだ。
『テニミュ』から『昼顔』へ:遅咲きと呼ばれた男のブレイク前夜

俳優としてのキャリアは、決して順風満帆ではなかった。ミュージカル『テニスの王子様』でのブレイクはあったものの、その後は長い下積み時代が続く。深夜ドラマや単館系映画での地道な活動。彼が世間に「見つかった」のは、30代に入ってからのドラマ『昼顔〜午後3時の恋人たち〜』だった。
遅咲き、と人は呼ぶ。しかし本人はその評価にどこか冷ややかだ。早くして売れることの危うさを知っていたからこそ、一過性のブームに流されることなく、自らの表現を研ぎ澄まし続けることができたのだろう。
なぜ彼は「齊藤工」としてメガホンを取るのか? 監督業への執念

役者としての地位を確立しながらも、彼は「齊藤工」名義で映画監督としての活動を本格化させる。そこには、映画というメディアに対する異常なまでの愛と、危機感がある。日本の映画業界のシステムに対する疑問や、インディペンデント映画への支援。彼は単に出演する側にとどまらず、作り手、そして届ける側(移動映画館『cinéma bird』)としての役割を自らに課した。
若い頃に世界の辺境で映画に救われた経験が、彼を突き動かしている。「映画が届かない場所に、映画を届ける」。このシンプルな情熱は、彼が若き日に抱いた映画への恩返しなのかもしれない。
2026年の今だからこそ響く、若者たちへの「泥をすする」生き方
2026年現在、エンタメ業界は急速なデジタル化とタイパ(タイムパフォーマンス)重視の波にさらされている。その中で、斎藤工の発言や生き方は、効率化に疲弊する若い世代に強い説得力を持って響く。無駄なこと、遠回りすることの価値を、彼は自らの人生をもって証明しているからだ。
「無駄の中にしか、本物は宿らない」。かつて路頭に迷い、何者でもない自分に絶望していた若き日の彼が、今の若者たちに語りかけるメッセージは重い。
変化し続けるアイコン:私たちが彼に魅了され続ける理由
年齢を重ねるごとに、その魅力は渋みを増すばかりか、より軽やかで自由になっているように見える。モデル、俳優、監督、そして活動家。肩書に縛られないその生き方は、かつて彼が夢見た「境界線のない世界」そのものだ。
私たちはこれからも、彼の変化を追い続けるだろう。かつて世界を彷徨っていた一人の青年が、どこまで遠くへ行き、どんな景色を私たちに見せてくれるのか。その旅は、まだ終わらない。 (出典: 斎藤 工 若い 頃(Yahoo!ニュース))